2012年7月24日火曜日

私と読書---心に水を注ぐ。

このブログに、新藤兼人さんのことを何度か書きましたが、それを読んだ友人が、こんな一冊を貸してくれました。「100歳の流儀」は、新藤さんが100歳になった記念に出版されたもので、それまでに書いたものや話したことを、再編集した本です。

まえがきの最後に、「みなさん、さようなら----。」と書いてある。きっと、遺書のような一冊のつもりだったのだろう。そして、実際にそうなったのですが・・・。


新藤兼人監督の残したもの
新藤兼人監督の残したもの・2




これと言って主張するわけでも、何かを教えようとするのでもなく、人生の中で体験したこと、感じたこと、続けてきたこと、大切にするもの、映画への思いなどが、2-3ページづつの文章にまとめられている。力まない、さりげない言葉の中に、確かに人生の流儀が綴られている。そんな感じの一冊でした。

この本は、友人のお母様が読んで、その娘である友人に送ってくれたものだそうで、私は、それをまた、お借りして読んだわけです。
私は本を読むのが好きですが、このようにして、一冊の本が、何人かの手を回っていくことがあります。貸してもらった本には、自分で買った本とはまた別の趣がありますよね。例えば、この本を通じて、友人とその母親との関係を、想像してみたりもします。

そもそも、本を貸すという行為は、相手にも読んで欲しいと思う、あるいは、「この人はこの本からきっと感じるものがあるはずだ」と思う、そんなお互いの心の理解の上に成り立つことが多いのではないでしょうか。ある種、1対1のコミュニケーションです。読んで面白かったからと言って、それを誰にでも勧めるわけではありません。

私が、「これ、読んでみない?」と、よく本を貸したある青年は、「もともと、あまり本は読まなかったけど、貸してもらって読んでいるうちに、本屋の店頭でどんな本を選べばいいかがわかるようになってきた。」と言ってくれました。前よりも、いろいろな話ができるようになりました。
今では、「○○を読むと、きっと、触発されるはずですよ」と、私に本を薦めてくれたりもします。 もちろん、私の思考や価値観に照らして・・・。

お茶を飲みながら、読後感を話したりするのも、また至福の時間。そんな時に、思いがけないその人の心に触れたりもするし、教養や見識を感じることもあるものです。

「100歳の流儀」の中に、『裸の島』という無声映画の話があります。それは、無人島に暮らす一家を描いた映画で、幼い息子を無くし地面をたたいて慟哭した母親が、翌日から、また毎日、黙々と水を運び、さつま芋に水をかけ続ける・・・というものです。

新藤さんは、その行為は乾いた土に水をやることではなく、乾いた私たちの心に水をまくことなのだ、と言っています。人は、どんなに苦労しても水をまき続けなければ、心が乾き、生きていけない。「それが人間が生きる真の姿だと確信する」、と。

私が本を読むのも、そして、このような文章を書き綴るのも、きっと乾いた心に水をやるようなものかもしれません。そして、一冊の本を通じた誰かとの交流は、よりたっぷりと豊かな水を自分に注いでくれるような気がするのです。

新藤兼人監督の残したもの
新藤兼人監督の残したもの・2

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