2012年7月7日土曜日

夏目漱石もノマドだった?

先日書いた、「ノマドは若者だけのもの?」には、予想外のアクセスをいただきました。
昨夜は、BSプライムニュースで、『悩む力と我々の生き方 夏目漱石の予言とは…』と題して、夏目漱石を取り上げていましたが、そこでもノマドの話が出ていたので、少し書いてみようかと思います。

番組には、近著「続・悩む力」が売れているという姜尚中さん、宗教学者の島田さんが出演.。
「いま、生き方を考えるのに、漱石がとても参考になる。」「100年も前に書かれた漱石の書物には、いまの社会状況を予見していたようなところがあり、今読んでもリアリティがある」というような切り口で、話が展開されていきました。

漱石とノマドが、どうつながるのか?
ということですが、姜尚中さんは、漱石が描いた主人公たちのスタイルを「高等遊民」と説明していました。
自分らしく生きたいと願う気持ちが強い。でもそれを現実のものにすることは、一般とは違う生き方を求めることになる。ある意味、まわりの社会を否定しないといけない。そんな不確かな中で、苦悩しながら、先進性や教養、知見をもつ文化人として生きるのが漱石の主人公たち。それを、姜尚中さんは「高等遊民」という言葉で表していました。きっと、漱石自身も、「高等遊民」なのでしょうね。

この観点から、現代(いまの社会)について、以下のような話が展開されていました。

●自由を求め、自由を理想にしてきたはずなのに、
実際にこれだけ自由な社会になると、なぜか苦しい。
壁がある(つまり選択の自由があまりない)社会では、自分がやりたいことと壁の間で悩み苦しみ、あるいは壁に反抗したり乗り越えようとすることで、逆に自分がやりたいことが、よりはっきりしてくる。自分が本当に何をしたいかがわかる。
しかし、その壁がない、つまりあまりにも自由な社会では、何をしたいのか白紙から考えないといけないので、何の手探りもない状態になってしまい、逆に苦しい状態になる。


●これからは、ノマド的なところに生き方の理想を求めないと、
もう自分らしさを実現できない時代になっている。
漱石の時代には、「遊民」は一部の人、つまり進歩的なマイノリティでしたが、いまは多くの人がそこを求めるようになってきている。つまり、情報化により、いろんなことがわかるようになって、漱石が描いたような世界が、一般化してきた。ある意味、「一億総遊民化」とでも言える時代が来つつある。

●視点を変えると、現代の資本主義の状況に、
ノマド化を促進せざるをえない側面がある。
その上にうまく乗っかっていける人は、漱石の小説と同じような「高等遊民」になれるし、そうでないひとは、言葉は悪いかも知れないが「下等遊民」になる・・・。

(姜尚中さんは、高等、下等は必ずしも上下の意味ではないと言っていましたが)、現実には、自分らしさを実現しつつ、ある種先進的に生きていける成功できるノマドと、自分らしさを求めながらも、理想的なかたちでは実現できないノマドは、出てくるでしょうね。漱石の時代には、ノマドはある種、出来る人だけの選択肢だったけど、これからのノマドには、いろんな人が混じってきて、それは、新しい格差ということになるのかもしれません。

まとめれば、以下のようなことでしょうか。
・自分らしさを求めないではいられない人が増えているのが今という時代であり、
・自由すぎるからこそ、人々、特に若者の苦悩があり
・資本主義の転換期であることもあいまって、より多くの人が、ノマド的生き方を選ばざるを得ない状況が出てきている。



悩む力
 番組では、受け止めきれないほどの悲しみや不運に出会った時など、ものすごい苦悩をしいられる状況では、いわば「二度生まれ」も必要なんじゃないか、ということも話されていました。とことん苦悩して、苦悩することから価値観を変えて、違う生き方を求めるしかない・・・と。

それは、転機を迎えたシニア層にも言えることかもしれませんね。なんとなくこのまま行くか、一度、とことん悩んで「二度生まれ」してみるか?それも人生の岐路なのかもしれません。

例えば、大企業に定年まで勤めた場合。それなりの大変さがあり、制約や犠牲にしてきたものもあったのでしょう。でも、それは壁があったということで、やりた いことも見えやすく、充実感も得やすかったのではないでしょうか。でも、リタイアして壁がなくなって、本当に自由になったら、若者同様、どうしていいかわからなくな る・・・。そこからの勝負、という気がします。

私は、大企業を早期に辞め、組織の看板や常識にとらわれず、自由に、でも責任を持って、自分が納得できるように生きたいと思ってきました。そう、会社に勤めていてもいいけれども、会社や他の何かを自分のアイティティにするんじゃなくて、自分個人としてのアイデンティティで勝負したかったのです。そんな言葉はありませんでしたが、もしかしたら、ノマドの走りなのかもしれません。
でも、それでもまがりなりにも生きて、食べてくることが出来たのは、そして、自ら「選択的ドロップアウト」などと称して、それなりの誇りを持って生きることができたのは、まだ時代が成長していて恵まれていたからだと思います。

これからは、成長が止まって、経済も政治も不透明な中で、ひとりひとりの力がより問われるのだろうと思います。でも、その代わり、恵まれた社会インフラや情報ネットワークがあります。若者には、悩んでもいいから、自分の中にこもらないで、不安に負けないで生きて行って欲しいです。もちろん、シニアたちにも。

ところで、実は私は、漱石が大好きで何度も読んでいます。でも、この話を踏まえてもう一度読んでみようかなと思いました。
セカンドステージを考えるヒントに、みなさんも、試しに漱石を読んでみてはいかがでしょうか?

よろしければ、こちらもどうぞ。
ノマド」は若者だけのもの?

1 件のコメント:

  1. 「高等遊民」イイですね(*^^*)
    姜尚中さんのお話しには説得力がありますよね。

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